先日、企画展「戦争と平和を考える2017」のギャラリートークを開催しました。
ギャラリートークでは、お二人の方をお招きし、当時の戦争体験について語っていただきました。
<第1回 吉野蕃人先生>
吉野先生は1925(大正14)年生まれ。松江で少年時代をすごしたのち、1945(昭和20)年に召集され、満州(現在の中国東北部)の野戦重砲第20連隊に入隊し従軍しました。
その後、同年9月下旬に「日本に帰す」貨車に乗せられ到着したのがシベリアのハバロフスク地方のオブルチェでした。
そこから1948(昭和23)年5月まで、この地で抑留生活が続きます。
日本兵は、抑留生活で過酷な食糧事情と重労働により次々と倒れ、亡くなっていきました。吉野先生もいろんな幸運が重なって自分は今ここにいるのだと語っていたのが印象的でした。
先生のお話の中で特に印象に残ったのが、高田伍長の話。抑留施設の脱走計画の誘いがあったけれど、先生は断ったそうです。その後計画は実行されましたが、みな全滅でした。一人石川兵長だけが収容所へ送り返されてきたものの、結局処刑されてしまいます。他にこの脱走計画を知っていた人(=高田伍長)が帰国後吉野先生と再会し、1987(昭和62)年に吉野先生の誘いで石川家の菩提寺に供養を営んだそうですが、翌年自ら命を絶ってしまいました。
このように、脱走事件から42年経過してもなお、戦争の傷跡が一人一人の心に深く残っていたのだと、あらためて気付かされました。
<第2回 常松正雄先生>
常松先生は1930(昭和5)年平田市生まれ。銃後の仕事として、男手のいなくなった百姓家に畑仕事や水汲み、薪作りなどの勤労動員を経験し、そのせいで腰痛持ちになった、これは戦争後遺症だと言われていました。
先生は、戦争末期の1945(昭和20)年4月に島根師範学校へ入学しますが、ここでは軍事教練や運動場の開墾、建物疎開(附属小学校校舎の取り壊し)を経験しました。
先生はお話の最後に、「振り返ってみると、戦争という一つの目標をもって、何も考えない、余裕を与えず、すべてを犠牲にさせるという思想の統一があった」と当時を振り返り、「世界の市民が自分の考えをもって行動することが大事だ」と語ったことが印象的でした。
先生方、貴重なお話をありがとうございました。